そして、星になった。

 今月に齢61となる自分が、まだ24の春だったかに初めて会いました。と云うことは、当時はまだ37くらいだったのかな。時はバブル絶頂期前夜の時代、初めて自動車屋に職を得られた自分は、有頂天で勇躍出社いたしましたが、二日目の朝に、メルセデスベンツ560SEC(W126)の明後日納入予定だった業販個体に、急遽練馬陸運支局での予備検査を取ろうと云うミッションの運転手役を仰せつかったところ、テスター屋さんから出て来てT字路を左折しようとした瞬間に「ボン!!ベキベキベキ~!」と音がして・・・560SECのブルーブラックに塗られた大きな左ドアはド真ん中から大きく凹み、サイドウインドーは全開にしていたためコナゴナに割れてしまっておりました。右側から来ていた宅急便のトラックに気を取られて低い位置に在ったガードレールに気付かぬまま、ベンツ特有の良く切れるステアリングを慣れぬ自分は切り過ぎたままで曲がってしまったのです。さぁ、ソコからがてんてこ舞い(大泣笑)。「何とか、このボンクラ新入社員がヤラかした大きな凡ミスを親爺(社長)にバレないように・・・」と、当時の先輩諸氏が一丸となって段取りを組んでくれまして、予備検査の突破、鈑金工場への入場と夜を徹しての突貫作業依頼、ドアやウインドーの他サッコプレートなどの超速部品調達などに骨を折ってくださったおかげで、かろうじて自分の首は繋がり、ソレが現在まで続く基となっていると思えば、感謝をしてもしてもしきれないくらいの出来事でしたが、その「オカモト君をクビにされぬようにする」ミッションの陣頭指揮を取ってくれたのが後にウチの三男が「練馬の師匠」と呼ぶY崎さんその人でありました。

 そんなY崎さん、てっきり自分が勤める会社の先輩社員であると、その後の二週間ぐらいは思ってました。いつも工場棟のヌシ然として、二柱リフトに載せられたベンツやビーエムのモトで、日がな一日の間は次々とクルマを入れ替えながら触媒(キャタライザー)の熔接作業を行っている上、10時になれば「ホレ、オカモト君、お茶の時間くらい休め!」、そして15時にも「オカモト君、オヤツだぁ!」と自分以外の社員や外注業者さん方も含めて飲み物やお菓子を振る舞ってくれておりましたんで、当然の如くに最古参の先輩社員なのだと勘違いしていたワケです。その実は、以前同社の社長が経営していた会社が一旦解散した時点で既に独立していて、同社が輸入していた並行輸入車(新車・中古車)に国内向け改善(排ガス検査のための触媒取り付けとか、国内法規に準拠するよう灯火類を交換したり追加したり除去したり・・・)を施す作業を、同社の工場に常駐するカタチでの外注請負をしていたんですね。そのまた以前、1968年(昭和43年)に整備士免許を獲得して上京した時には、練馬に現存する件の突貫工事をしてくれた自動車屋さんが最初の就職先であったと後に伺い、「だから顔が効いて、ムリ難題も聴いて貰えたのだな」と得心するとともに、いよいよ感謝したものでした。

 しばらくすると、並行輸入業者の団体が行うゴルフコンペ大会にも参加せよとの御下命が自分にも下り、しぶしぶ大熱海ってゴルフ場まで行き、コンペに参加して200人中で200位のブービーメーカーになっちゃった(大泣笑)んですが、ソレを見たY崎さん、「オカモト君、今度ゴルフ教えてやるヨ」と自分を打ちっぱなしへ連れて行き、「もう向こうを見ないで、タマだけ見ながらスイングしてみなヨ、そしたら必ず当たるから」との有難い御託宣。自分は空振りも律儀に数えて自己申告していたのを、Y崎さんは見ていてくれたワケです。サスガにシングルプレイヤーからの教授は的を得ておりまして、その後の自分は空振りもしにくく(時にはする:泣笑)なりましたんで、その後のベアリング屋勤務時に行かざるを得なかった接待ゴルフでも、最小限の恥掻きで済みました。

 ゴルフもシングルでしたが、スキーもプロ級の脚捌きでした。福島の御出身で、ぶっちゃけ訛りもキョーレツでして(笑泣)、知り合って三ヶ月の間、Y崎さんとの会話中は英語で云う「ぱぁーどん・みー?」を心の中で繰り返してたくらいです。「オカモト君」のイントネーションは、「→→→→(オカモト)」ではなくて、「→↑↓↓君」と、北関東弁に近いノリ。ウチの三男などは直弟子なのに、最後まで電話でのヒアリングは完全ではなかったと申してます。自分は完全にヒアリングをマスターしてました(笑)ケドね。地元にいらした高校生の時分には、甲子園を目指して野球に打ち込んでたとの話も後に伺いました。途中怪我をされて道は断たれたとの由でしたが、スポーツ万能だったのは、きっと持って生まれた基礎体力や動体視力が優れていたのでしょうね。とある冬には、御同伴の奥様とともに苗場プリンスのトリプルルームに泊めて頂き、眼前のスキー場にて特訓を受けさせて貰えたのも忘れ難い想い出です。

 職場の直属先輩とともに、Y崎さんも一緒になってドイツへの車輌買い付けツアー行かせて貰ったことも思い出されます。実は買い付けミッションとはカタチばかりのもので、「いつも踏ん張ってる先輩二人を慰労するためのヨーロッパ旅行」と云うのが実態でして、社長からの粋な計らいでした。自分は「大学中退してんだから英語ぐらいは少々出来るダロ?」と、道中での通訳役くらいの役回り。早速、JALからエールフランスへのトランジットに間に合わず、ドトール空港脇のホリディ・インに泊まるハメとなりましたが、ソコのハンバーグが味無しでマイってたところ、Y崎さんは無邪気な笑顔を湛えながら「ばい、キッコーマン!」とセカンドバッグから小分け醤油を取り出して、少しずつ三人の皿に掛けてくれたものです。何とかドイツまでは辿り着き、後は語学に堪能な現地駐在の諸先輩にすべてをお任せして、ハンブルク郊外でゴルフに興じたり、大きなビアホールで本場のドイツビアを超絶なソーセージとともに堪能しましたね。ロンドンでの観光はピカデリー・サーカスやビッグベンしか覚えてないケド、パリではルイ・ヴィトンの本店に行き、当日売り出し中の「エピ」って新商品に全部買い換えると宣うY崎さん。ソレまで持ってた「如何にもルイ・ヴィトンって感じのバッグ(LV・LV・LV・・・)」をソコで棄てようとしていたんで、「そ・・・ソレ、自分にくださいっ!」と思わず叫んだのもバブルっぽい逸話ですね。ムーラン・ルージュでは、柱のカゲとなる席しか取れずに「ぜーんぜん見えねぇーでねーかー!」と、云ったとか云わなかったとか(笑)。

 それから月日が流れ、自分がマイクロ・デポを立ち上げるに際しても、主にドイツ車の整備に於いてはY崎さんの持つ実力とノウハウは不可欠でしたし、後には徐々にイタリア車にも馴染んで貰い、しまいにゃフェラーリ512TRのタイミングベルト交換をエンジンを降ろさずに行うと云った離れワザまで披露してくれました。その頃、埼玉県三芳には鈑金工場を擁し、練馬区石神井には自宅兼ショールームを持っておられましたが、リーマンショックの余波もあって、キレイサッパリと精算し、新たなウナギの寝床状工場を練馬区貫井に設けられました。ウチの次男は、ほとんどソコに入り浸っていたくらいに居心地の良い空間だったのでしょう。とにかく皆がお人柄に惹かれる明るく楽しいY崎さんでした。

 いつも太くて大きいグローブのような左手には、指と指との間に各番手のボックスレンチソケットをハサんだまま、右手にはエアツールを片時も離さずに、あたかも精密なマシニングセンタさながらに、作業に応じて左手の的確なソケットを右手のツール先端に差し込みつつ「きゅぃ~ん、きゅぃ~ん!」と唸らせていた風景も、つい二ヶ月前(モンディアルtのエンジン搭載作業の補助を依頼)までのことでした。

 還暦を過ぎてから身体を絞って挑戦した東京マラソンも、初参加時から二年連続で完走するくらいに身体頑強、お元気でしたが・・・

 先々週の朝に練馬の仮住まいアパートで、倒れて呻き声を上げているところを、軽バンの車検を依頼するために来た方が発見して救急車を呼んでくれたとの話を聴きました。容態が気になってはいたものの、「衰弱し切った姿を見られたくはないのでは?」と見舞いに行くのを躊躇っておりましたが、先に三男を行かせたところ「もう長くないかも知れない」との伝。居ても立ってもいられない気分となって、翌日であった先週の水曜日午後に入院先の光が丘で最期の面会を果たすことが叶いました。しっかりと目を開けて起きていてくれました。自分も懇意にしている地元のメルセデスドクターが、ちょうどお帰りになるタイミングでした。「オカモト君が来てくれたヨ。もう一度、一緒に呑みながら語りあいたかったね・・・」と半ば涙声で席を譲ってくれましたんで、その後15分間は二人で過ごす時間を与えられました。とにかく謝辞を述べ、リラックス出来る音源をスマホから流しつつ、「今、ドコかイタい?」「(首を横に振る)」「あーヨカッタ!今までホントに有難うございました・・・」「(目を合わせ、首を縦に振り何度も頷く)」「一緒にドイツに行ったり、スキーにも連れてってくれましたね」「(ウンウン)」「じゃ、そろそろ失礼しますね。また来ますね。またきっと会いましょうね・・・」

 先の日曜日、ちょうど自分たちが新狭山駅を目指して歩いている頃に、偉大なる「練馬の師匠」は安らかに旅立たれたそうです。娘さんと二人のお孫さんも、当時自分の直属上司であった方とともに、意識が混濁する前のお見送りが出来たようで何よりでした。感染症禍の始まる前年からの長く過酷な闘いの中で、新薬の治験すらも試しつつ、最後の最後まで現場主義を貫かれた尊い人生でした。当店顧客の皆さんも、間接的には作業補助や希少部品の調達で御世話になって来ていると云えましょう。

 きっと優れた魂は、まったく角の無い真ん丸なカタチとなって、また来世へと転生して行くのでありましょうね。「オカモト(→↑↓↓)君、まぁ~たこんなクソグルマを持ってきやがって(ニヤリ)・・・」「いやいや、そんなコト云わずに来世でもお願いいたしますヨ、ヤマちゃん、あ、いやY崎さん!」・・・合掌。

 ☆11月8日(金)は参列のため臨時休業とします☆

 それじゃー、また明日。

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“そして、星になった。” への9件の返信

  1. 別れは切ないものの
    その御方と出会えた事と、その御方との思ひ出に浸れる事は素敵な事かと
    さぞかし良き思い出だったと察します

    以前、たこちゃんがドイツに行った事をホルモン屋さんで耳にし
    なんでも、酒場でハイジの恰好をした身長2mの女の人がビールジョッキを持って来た、とか
    にわかに信じ難く

    オカモト(→↑↓↓)って、ファミコンかプレステの隠しコマンドみたいで
    昇竜拳!(↘↓↘+A or B)

  2. ↑そう、そのハナシのビアホールが、今日出て来たホールだったんです。ホントに特大ジョッキを左右3つずつ握りしめて運んでくるんすヨ、ハイジの格好して(笑)。

  3. Y崎さま、人生謳歌されたことと思います。
    謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

  4. 謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
    とにかく皆がお人柄に惹かれる明るく楽しいY崎さん、文面からよく伝わってきました。
    見習いたいものです。

  5. やはり人生は人との出会いですね。
    出会いがあれば別れもある。
    残念なことではありますが、相当濃ゆい思いでが残っていることこそがお互いに精一杯生きた証であり、素晴らしいことだと思います。

  6. きっととても嬉しかったと思います。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

  7. 謹んでY崎さんの御冥福をお祈り致します。

    たこちゃんがこれだけ吐露するのであれば、偉大な先人であったのでしょう。

    人はいつかは屍になります。だからどんな「物語」を残すのか。僕はこれがマイクロ・デポの素晴らしい所以だと思っています。

    僕はたこちゃんや皆様と会えて幸せです👍

  8. 後出しコメント:たこちゃん、三男工場長さんの「練馬の師匠」ことY崎さま、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
    あのカンパーナを駐車してあった秘密の工場の方ではないですよね。

    1. ↑その場所に、本文中にある工場棟が、かつて在ったんです。今現在の主は、本文中にある当時の直属上司だった方なんで、Y崎さんではありません。

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